第一章

 『俳優修業』は、演劇学校(モスクワ芸術座の養成所がモデル)に入学した“僕”の日記の形態をとっている。
 そして、“僕”の指導者である演出家トルツォフはスタニスラフスキー自身がモデルだ。
 スタニスラフスキーは『俳優修業』において、自分の築き上げた俳優養成術を、“僕”の成長物語として再現しているのである。
 演出家に対する“僕”やその同期の疑問の描写が、読者の疑問の代弁となり、
 それに対する演出家トルツォフの言葉は、スタニスラフスキー自身の言葉であり、
 “僕”の内面変化過程とは、スタニスラフスキーが理想とする俳優の成長過程を示しているのである。

*注1/『俳優修業』中に度々出てくる学生演劇とは、「劇団附属養成所という学校に通う生徒=職業俳優の志望者」の演劇という意味である。現代日本における大学の演劇サークルや高校や中学の部活動演劇のことではない。

*注2/本来、『俳優修業』中に出てくるアマチュアとは、職業俳優ではない俳優という意味である。が、現代日本においてはタレントさえも職業俳優とされてしまうため、「システィマティックな訓練を受けていない俳優」と理解すべきだと私は考える。

*    *    *    *    *
    
□□□ 第一章&第二章 □□□


 『俳優修業』第一部 第一章と第二章を総括するならば、「俳優が陥りやすい失敗」を示している。
 第一章では“僕”が冒した間違いのひとつひとつを、第二章では「なぜ、それらが間違いなのか」を説明し、「これから進むべき道」を示唆して締め括られている。
 読解のポイントとして、これらの失敗は「俳優の未熟さに起因する失敗」と、「スタニスラフスキーが否定した19世紀演劇の影響による失敗」のふたつに分かれるところに注目したい。
 いわば、第一章と第二章とは、スタ・シスが否定する演技と、スタ・シスが目指す演技を説明しているのだ。

■■■ 第一章 最初のテスト ■■■

(第一章 1)

 主人公の“僕”は、実にわかりやすく数多くの失敗を示してくれる。
 『オセロウ(オセロ)』を読んで、2ページとたたないうちに演じてみたくなったといい、タオルを白い頭巾(ターバン)とし、大きな象牙の紙切り(ペーパーナイフ)を短剣に見立て、お盆を盾として悦にいる。
 外見・外観からのアプローチとは、初心者なら誰でも陥る失敗のひとつだ。
 外観からのアプローチは、俳優をその気にさせる効果はもっている。しかし、役の内面性の表現には役立たない。
 ひとりの俳優が、同じ衣装を着て、同じメイクをし、「王様」と「王様のふりをしている乞食」を演じた場合、観客から外見による差異は見えない。
 大切なことは、「王様という立場にある、役の人格」を表現することであり、「王様のふりをしている乞食の、役の人格」を表現することなのだ。
 この人格といった内面が観客に示されれば、観客は同じ衣装とメイクである「王様」と「王様のふりをしている乞食」というキャラクターを見分けられる。
 演技とは、“見た目”上のものだけではない。観客に示すべきは、役の人格=内面なのである。
 では、この内面とは、どこから根拠を得ればよいのか。
 ホン(戯曲、シナリオ)からである。
 なのに、“僕”は、『オセロウ』を2ページと読まぬうちに役づくりを始めてしまう。 『オセロウ』のストーリーとドラマ、テーマを熟知しないうちに役づくりをしたのでは、そこから導かれる役づくりが「表面をなぞっただけのもの」になってしまうのも当然だ。
 “僕”は、自分が「文明開化風」だといって、アフリカ人の野生を掴もうと努力する。 一瞬、内面に近付く作業のようにも思えるが、これもまた間違いのひとつだ。
 なぜなら、そこにアフリカ人のイメージはあっても、ムーア人であるオセロウという人物はいないからである。
 このように勘違いの塊である“僕”は、最初から大きく躓くのであった。

(第一章 2)

 スタニスラフスキーはここできつく遅刻を戒めている。「なんだ」と思う人もいるかもしれない。
 しかし、この点もまた、今後、『俳優修業』を読み解くにあたって大事なポイントとなるのである。
 『俳優修業』は、演技術だけのものではない。1本の作品を仕上げる集団としての倫理も説いているのだ。
 ここでも、まだ“僕”は自分の失敗に気付いていない。そして、ここでは“僕”のアプローチが失敗である証拠として、“僕”が不安になっていく様を描写している。


(第一章 3)

 最初の稽古において、“僕”は科白に手こずる。
 それまで、ただひたすらに外面からのアプローチしかしてこなかったのだから当然といえよう。
 アマチュア俳優の中に「言葉は空虚だ」と言い張るタイプがいる。「言葉にすると嘘になる」というのは詩的な主張ではある。が、その主張とは、“僕”と全く同レベルでしかない。
 そして、“僕”はあれほど練習した、歯をきらきらさせたり、眼をくるくるとさせたりすることもできず困惑する。外見からのアプローチによる「必然のない所作」なのだから、これもまた当然だ。
 ここで彼が手にしたのは気分転換ぐらいでしかない。
 
 
(第一章 4)

 “僕”の混乱はますますひどくなる。
 初心者ならば誰でも陥る、ある種の地獄だ。
 ここで注目すべきは、まだ“僕”には救いがある、ということだ。
 “僕”は自分のやったことを失敗だと、素直に認めている。この素直さは、俳優にとって長所のひとつだ。(演出から注意されても、言い訳を重ねて自己保身に走る俳優に比べれば、はるかに将来が期待できる)


(第一章 5)

 この短いパートは、“慣れ”を示している。
 端的にいえば、稽古を続けるうちに“僕”は、段取りには長けてきたということでしかない。


(第一章 6)

 “僕”は、ついに舞台での稽古を経験する。
 “僕”は極度の緊張から、集中ができない。“僕”ができたことは、機械的に話したり演じたりするだけだ。
 つまり、段取り以上のことはなにもできていない。
 ここで“僕”は、初心者にはありがちな思い違いをする。段取りがうまくいったことを、「できた」と思い込むことである。


(第一章 7)
 “僕”の緊張と、それに伴う集中力の欠除は相変わらずだ。そして、それは焦りへとつながる。


(第一章 8)

 前日と家具の位置が変わってしまっただけで“僕”の混乱は最高潮に達し、自動的な演技(段取り)すらちょっとしたことで途切れがちとなる。
 意気消沈して帰宅した“僕”は同期のレオと語り合う。“僕”はレオとの会話の中で、やっと役の内面について考え始める。やっと、本当にやっと、ムーア人の背負った不幸について思いを巡らせ、共感を覚えるのだ。
 “僕”はまだまだ未熟な俳優ではあるが、役への共感によって「泣かんばかりであった」といえる感性は素晴らしい。
 これは感情的であることへの賞賛ではない。役を自分の中に取り込もうとする姿勢、素直さの問題である。


(第一章 9)

 試演本番当日。
 “僕”は、生まれて初めて舞台に立つ者であれば、誰でも感ずる緊張と混乱の嵐に巻き込まれる。
 ここに記されている緊張と混乱は、舞台に立った者であれば誰でも経験するものだ。自分の過去を思い出しながら読んだ人も少なくないであろう。
 “僕”からは計算も予定も段取りも失われる。“僕”自身が失敗だったと自覚し、それまでに執着していた全てを捨てて自由になった瞬間……
 “僕”は台詞を内面から発する。


 『俳優修業/第一部』P20より抜粋
 
 「僕は、あの名高い台詞、「血だ、イアーゴウ、血だ!」をなげつけた。僕は、この言葉に、信じている男の魂が受けた痛手のすべてを感じたのだ。レオのオセロウ解釈が急に、僕の記憶に蘇って、僕の情緒を喚起したのである」



 これぞ、スタニスラフスキー・システムの真骨頂である。
 スタ・シスとは、役を解釈し、その役の内面を演技表現に活かすことを重要視する。俳優の内面が、役の内面へと近付くことが大事なのだ。
 内面から発生する演技、これこそがスタ・シスが目指す演技なのである。
 それは感情だけでもなければ、理屈だけで組み立てられるものではない。
 ポイントは「レオのオセロウ解釈」である。“僕”にスタ・シスが求める演技が一瞬でもできたのは、この解釈があってこそなのだ。
 スタニスラフスキーを継承していると自負する指導者、演出の中には、この解釈の存在を忘れていることが多いのはひじょうに残念だ。彼らは解釈を二の次にして、内面ばかりを強調する。
 スタ・シスが実践的な演技論である所以は、この解釈の存在があるからだ。
 ホンの解釈があってこそ、役の内面を正しく理解できるのだし、
 正しい理解があるからこそ、俳優の内面から役が自然に発生するのである。
 演技とは、情緒からだけ発生するのではない。情緒を発生させる根幹が重要なのである。その根幹こそが解釈なのだ。
 
 “俳優が自分ではなく、役を生きる時、
  俳優は全観客を征服することができる”
 
 演出家トルツォフ=スタニスラフスキーの“僕”に対する評価は次回、第二章となる。

第二章へ



◇DATA◇ シェイクスピア作『オセロー』について(参考資料:平凡社大百科事典)

 シェイクスピア第3期の作品。シェイクスピア4大悲劇のうちのひとつ。
 原題 Othero,the Moor of Venice(オセロー、ベニスのムーア人)。初演1604年。
 ベニス共和国に仕えるムーア人の将軍オセロー。彼は元老院議員の娘デスデモーナと愛しあう。この恋は彼女の父から妨害を受けるのだが、ついにふたりは結ばれる。
 トルコ軍との戦闘のため、キプロス島へ派遣されるオセロー。そこでオセローはイアーゴーの企みによって、デスデモーナの貞淑に疑いを抱いてしまう。
 デスデモーナの不貞を確信したオセローは、彼女を自らの手で絞め殺す。しかし、その直後に全ての真実を知って、
自害するのであった。

 【ムーア人について】
 ヨーロッパ人が、北西アフリカ(マグリブ)のイスラム教徒を指す呼称。ムーアとは現在のチュニジア、アルジェリア、モロッコ、リビア、モーリタニア、西サハラの辺り一帯を指す。古代ギリシャ時代から中世にかけて、ヨーロッパ人はムーア人を蛮族として蔑視していた。


 安達成彦のティーブレイク 

■■■スタニスラフスキーは演出至上主義か?■■■

 スタニスラフスキーを毛嫌いする俳優の中に「スタニスラフスキーは演出至上主義だ」というのがある。
(演出至上主義……演出に全ての権限が与えられ、俳優は演出の全てを受け入れねばならないとする主義)
 さて、はたしてそうであろうか?
 そういう俳優は、スタニスラフスキー自身が俳優であったことを知らないことが多い。しかも、スタニスラフスキーが若い頃からあらゆる訓練を受け、自身の演技がロシアで高く評価されていたことも知らないようである。
 この第一章を読めばわかるように、スタ・シスが目指す演技とは、演技初心者の“僕”であっても、一瞬なら掴める演技なのだ。
 第一章における「演出家が生徒と親しくなりたいからやる試演」では、演出の指示はおろか、一言の指導さえもない。
 だが、“僕”はスタ・シスが目指す地平をほんの一瞬だけ掴めているのだ。
 スタニスラフスキーが真に演出至上主義であったならば、こんなことは書かないはずである。
 私が考えるに、これはスタニスラフスキーが役者であったからこそ、書けたことなのだ。
 そして、スタ・シスがシステムというのは、この一瞬を演技全体に持続させられる論理的な思考術と訓練術を確立したからなのである。
 貴方の手元にある『俳優修業/第一部』を開いてみてほしい。



『俳優修業/第一部』P458より抜粋

「創造過程には、父親、すなわち、戯曲の作者があり、
 母親、すなわち、役をはらむ俳優があり、
 そして、子ども、すなわち、生まれるべき役があるのである。
 そこには、俳優が初めて役を知るようになる初期がある。次に、彼らは、より親密になり、喧嘩をし、和解し、結婚し、そして受胎するのである。
 このすべてにおいて、演出家は、一種の媒酌人として、その過程を助成するのである」



 ここでスタニスラフスキーは、自分の分身である演出家トルツォフを通じて、「演出家は、一種の媒酌人(結婚の仲立ちをする人)」といい、「過程を助成する」と立場をはっきりと示している。
 この言葉のどこに演出至上主義があるだろうか?
 スタニスラフスキーは、そして、スタ・シスは、けっして演出至上主義ではない、と私は断言する。
 スタニスラフスキーが『俳優修業』で主張していること、そして『俳優と劇場の倫理』(未来社/絶版)で主張していることは、一貫して“俳優の自律”である。
 スタニスラフスキーは、論理的な思考と訓練の末に、演技を俳優の中から産め、といっているのだ。

 と、ここまでで不安になった演出家もいるかもしれない。それでは演出の立場がなくなるではないか、と。中には俳優の叛乱を危惧する人もいるであろう。
 それに対してスタニスラフスキーは、“倫理”の確立も忘れてはいない。
 第一章2では、遅刻が強く戒められている。演出家トルツォフの初めての指導であり、第一章における唯一の指導は、この「遅刻をするな」であり「遅刻をしてはいけない理由」なのである。
 この先、『俳優修業』を読み進めていけば理解できるが、スタニスラフスキーは、集団における倫理の醸成にひじょうにうるさい。
 作品を仕上げるために大切な倫理、
 倫理がもたらす秩序、
 秩序を実現する序列。
 このように倫理が確立された集団においてこそ、演出は、作品成立過程の助成役として仕事をできる、といっているのである。
 スタニスラフスキーはけっして俳優だけで作品が完成するなどとはいっていないし、集団における倫理や秩序を忘れてもいない。
 不安を感じた演出諸兄、御安心召され。

 俳優でも、演出でも、作家でも、この Stanislavskii Lab を読む以上は、スタニスラフスキーについての今までの風評や前評判といったものは全て捨て去ってほしい。
 スタ・シスを理解するとは、『俳優修業』を、ストレートに、ピュアに読み進めるだけでいいのだ。
 イメージと偏見を持ったままで『俳優修業』を読んでも、なにも掴めはしないのである。


 Stanislavskii Lab は、みなさんの手元にスタニスラフスキイ著/山田肇訳『俳優修業』(未来社刊)があることを前提に書かれています。お近くの書店に見当たらない場合は、書店に発注してください。
(ISBN4-624-70023-6 C0074)


THE AQUARIUS STUDIO内における全ての文章は、安達成彦が著作権を有しています。無断転載及び引用はその一切を禁じます。


【スタニスラフスキーの基礎知識へ】
【スタシスを必要とする人:役者編へ】 【スタシスを必要とする人:演出・作家編へ】