【スタニスラフスキーの略歴】
 K・S・スタニスラフスキー
 Konstantin Sergeevich Stanislavskii 1863-1938
 ロシア、ソビエトの俳優であり演出家。
 モスクワの有名な実業家アレクセーエフ家に生まれ、14歳以降から芸名スタニスラフスキーを名乗る。
 25歳のとき(1888年)、著明な演出家や歌手を教師に招いて芸文協会(Obshchestvoiskusstva i literatury)を設立。
 35歳のとき(1898年)、ネミロビチ・ダンチェンコと共にモスクワ芸術座を設立。
 70歳を過ぎてから(1932年以降)、“俳優の創造活動の解明と、その教育”の実践論理研究に没頭し、スタニスラフスキー・システムと呼ばれる俳優芸術の創造方法を生み出す。
 75歳(1938年)で、スタニスラフスキー・システムの集大成ともいえる『俳優修行』を刊行した後、没する。
 
【ネミロビチ・ダンチェンコ】
Iwanovich Nemirovich Danchenko 1858-1943
 ロシア、ソビエトの演劇人。モスクワ大学物理・数学科に学んだが、演劇にとりつかれ劇評、小説・戯曲を書くようになる。
 自作上演の経験から劇場芸術改革を志すようになり、“文学的戯曲を表現しうる役者”の育成を目指して、モスクワ・フィルハーモニー学校のドラマ科を主宰する。この機縁によりスタニスラフスキーと出会い、1938年、モスクワ芸術座を創立する。
 
【モスクワ芸術座】
Moskovskii Khudozhestvennyi akademicheski teatrimeni M.Gor`kogo
 1898年10月に、スタニスラフスキーとダンチェンコによって設立された。
 設立の動機は、
 「低俗な出しもの」「場当たりと紋切り型の芝居」「粗雑な装置や背景」「出演者中心の安易な興行」といった当時の演劇界と訣別し、「ロシア演劇のリアリズムの伝統」をふまえ、「高度の理念と生活の真実」に貫かれた舞台を創造しようというものである。

 ダンチェンコはチェーホフ、ゴーリキーを劇作へと引き込み、『桜の園』『どん底』などの戯曲をモスクワ芸術座のために書かせた。
 文学的戯曲を手に入れたモスクワ芸術座は、スタニスラフスキーの演出のもと、「登場人物の微妙な心理表現」「実在感溢れる人間像」を実現し、やがて「演劇の世界最高峰」と仰がれるようになる。
 19世紀まで、「スター中心の見せ物」が全盛であった演劇を、「非論理的な演技」だけであった演劇を、 20世紀に生まれ変わらせたのが、スタニスラフスキーであり、ダンチェンコであり、ふたりが設立したモスクワ芸術座なのである。
 そして、スタニスラフスキー・システムは、20世紀における演劇のスタンダードとなった。
 スタニスラフスキー・システムがわかりづらい、理解しにくい、という人は、このダンチェンコとモスクワ芸術座の存在を知らないことが多い。
 ダンチェンコの目指した「文学的戯曲を表現しうる役者」の育成と、 スタニスラフスキーの目指した「俳優の創造活動の解明と、その教育」が結びついたからこそ、 モスクワ芸術座の設立動機である「リアリズム」「高度の理念と生活の真実」は実現されたのである。
 
(この項、参考資料・平凡社大百科事典)

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